自分の樹の下で

「樹」というのはとても魅力的な存在だと思う。

空に向かって伸びていく姿も、

見えない地中に張り巡らされた根っこも、

いろんな想像が広がって見ているだけで面白い。

何よりも「樹」になるには、時が必要だ。


今年の3月、作家の大江健三郎先生が亡くなられた。私は子供の頃に読んだ『「自分の木」の下で』という本が好きで、大江作品にたびたび登場する「自分の木」のイメージというものがずっと頭の中にあった。

大江作品の「自分の木」にまつわる描写は優しいものだけではない。自分自身と出会うことは、とても勇気がいることだ。それは現実の厳しさや置かれた状況の過酷さに比例する。大江作品はその可能性もきちんと描いていた。だからこそ、私の中には大人になっても「自分の木」というテーマは残り続けて、事あるごとに考えるようになったのだと思う。

絵を描くようになり、「樹」を見つめるようになってからは、大江作品が提示した「自分の木」のイメージは私自身の中で日々変化し、成長し、「自分の樹」へとなった。意味合いも大江先生の意図とは違うものになったと思う。ただ子供の頃に思い描いた構図だけは、ずっと変わらない。

私の中で樹はとても、安らかな存在なのだ。
樹は動けず、与えられた場所で根を張る。そのたくましさは眼を見張るものだ。高校の美術の授業でむき出しの木の根っこを写生した時の感動は未だに忘れられない。
そして、必ず上へと伸びようとする。曲がっても、歪んでも、求めるのは空の方。
与えられた場所が酷くても、切られてしまっても、受け入れ、樹の生き方は変わらない。
私はその樹の存在に、一つの姿を重ねる。
そしてそこに憩う人間は、戦いはあれども最終的には安らかであるという小さな確信がある。

「自分の樹」を考えて描いた連作のイラストも、四年目になる。
機関紙の表紙としてちいさく展開してきた絵には、それぞれの物語がある。

その「樹」は私たちの中に必ずあり、どんな自分との邂逅場面も、静かに見届けている。
八つ当たりのように樹を叩くこともあるかも知れない。
でもその「樹」は変わらずいつも、共にある。
イメージがもう少し、広がりそうなこの世界。

自分の樹の下で、人はたびたび自分に出会えればいいな、と思う。